ITOKI通信5

焼け野原からの復興はまず測量

インタビュー
株式会社堀江商会

代表取締役社長
堀江秀雄氏

聞き手
株式会社日本経営科学
代表取締役社長
伊藤陽三

伊藤 創業は昭和22年。もともと富山の方でいらっしゃいますか。

堀江 ええ、海軍で艦船に乗っていました。昭和19年と20年に私の乗った船が没められているんですが、運良く助かりました。私のいた隊は南京から漢口まで関東軍の移動の護衛をしたり、台湾やベトナム・香港などに行きましたよ。

伊藤 昭和21年の秋に帰って来られて、すぐに商売を始められたわけですね。

堀江 富山は昭和20年8月1日の空襲で、それこそ終戦のすこし前に八千人死んでいるんです。当時富山は12万人位の人口でしたが、35連隊と不二越の兵器工場を目標に空襲があったわけです。幸い私の姉は皆うまく疎開していて無事でした。
そして何もないと
ころから、みんな同じ様に戦後のスタートを切ったわけですが、私は、何をしようと思った時に、遠縁の者が秤り屋が良いと言うものですから、富山で度量衡器測量機を扱い始めました。
当時の測量機はチャチなものでしたが、空襲で焼け野原になったところを復興す
るためにまず最初にすることは、測量なんですね。富山戦災復興事務所ができ都市計画というものが考えられ始めたのです。

伊藤 なるほど、復興に最初に必要なのは、測量ですね。先見の明がおありになった。

堀江 いやー。ただ度量衡というのは、免許がいるんです。私の親籍が度量衡の商売をやっていたものですから、そちらの方の関係で販売免許を受け、商売を始めました。当時は、物価統制令がありまして、官庁納入品はすべて法を守らなければならず、納入する業者はいなかったのです。
違反すれば、没収されるし、免許も取り消しになる。大変な時代
でした。先日も、富山の洋裁学校の40周年記念に招待されて行ったんですが、40年という歴史を感じましたね。戦後すぐ、食べ物に汲々としていた時に、これからは洋裁の時代と着眼し、洋裁学校を造られた方です。私も洋裁に使うものさし(洋裁尺)を当時供給しました。闇屋で買うと10倍はするし、割り当て分しか供給できず、大変な時代でした。また、商売柄、県庁に出入りする機会が多かったものですから、謄写版印刷のインクを都合して来いとか、商売違いなものもよく頼まれたものです。けれど当時の県庁の支払いは年に一、二回。現金が入らなくて往生しました。

伊藤 気象機械とありますが、気象観測用の機械も扱っていらしたのですか。

堀江 ええ、風力・雨量・気圧を測ったり、天気予報のための機械です。

伊藤 昭和27年に社名を(株)堀江測量機械店に変えて、昭和35年にまた元の堀江商会に戻されていますが。

北陸・関西・東北電力に測量機器を大量販売

堀江 昭和27~31年頃というのは、電源開発が非常に盛んになった年なんですね。それで北陸電力(株)の有峰ダム、関西電力(株)の黒四ダム、東北電力(株)の姫川開発などの開発事業が活発になり、うちは全部に取り引きがあったわけです。これが、今日の当社の基盤になったと言ってもいいくらいなんですが、当時北陸電力の副社長に大変可愛がってもらいました。その方から「堀江測量機械店というのでは、売る範囲が決まっちゃうじゃないか、もっと幅広くしておいた方が良いのではないか」とアドバイスを受けまして、元の堀江商会に戻したというわけです。

伊藤 なるほど、しかし、北陸電力、関西電力、東北電力と三電力がお得意先とは大したものですね。

堀江 発電所を起こすには水源調査、気象条件を始め、測量隊が一番早く動くんですね。こういう調査は私くし達も全部一緒に歩きました。当時、山の中を一緒に歩いた社員が、今も6名残っております。

伊藤 昭和41年に、科学技術庁、富山県と、富山県計量協会主催、第一回富山計測展出品。科学技術庁長官より感謝状受賞とありますが。

堀江 富山は東京の直轄地域で、当時、私は計量協会の専務理事をしていました。戦後、富山県の副知事をなさっていた成田さんを富山県計量協会の会長に担ぎましてね。私も15年間専務理事を務めてまいりました。
第一回計測展を富山で開催その成田さんに呼ばれて、行きましたら、今度、科学技術庁長官がみえて、日本海側で
計測の方の集まりを持ちたいと言っている。ついては、何か記念になることを県の方で考えてやれというのです。それで富山計測展というのを初めて開催したわけです。東京や全国に先駆けてやったんですよ。いわば富山が発祥地です。それが今日までずっと続いています。私は初めから実行委員長を務めていまして、これに関する表象を何度もいただいています。

伊藤 計量に関しては、先覚者であり、また押しも押されぬ実力と実績がおありになりますが、イトーキ製品など他の商品を扱い始められたのはいつごろですか。

堀江 今でもうちのお客さんの中にはイトーキをうちでやっているのを知らないところが多いですよ。もう根っからの測量機械・計測屋ですからね。ですが、結局うちが電力会社と取引きがあったものですから、昭和41・42年頃でしたか、北陸電力がスチールデスクを入れかえることになった時のことです。当時イトーキ北陸営業所が富山にあり大北さ
んという所長がいらして、電力に働きかけていたのですが、課長クラスが窓口だったものですから、重役のところで他に決まっちゃってダメだったんですよ。そんなこともあって、うちにね、イトーキをやらないか、お宅がやってくれれば、営業所を引き揚げるからと。同時に、私の友人に理光事務機(福井市)というイトーキの代理店がございまして、
そこの玉木社長さんからも、さかんにイトーキをやれと言われましたので、腰を上げたのです。たしか、昭和43年頃でしたか、西部イトーキ会というのがあって、玉造温泉で開かれた会合にはじめて出席しました。その時の世話役が松江の先代の原文さんで、印象深かったですね。

伊藤 では代理店契約は昭和43年ですか。

堀江 そうですね。当時のイトーキさんはイバって売っていましたよ。

伊藤 お宅は県庁とか建設省、電力会社等に、測量機械をおやりになっていた関係上、お強いわけでしょう。

堀江 そう、官庁、電力が7割でしたね。うちはね、イトーキ製品を扱うに当り、イトーキ担当者をつくったのです。今、盛んにイトーキさんが、代理店にイトーキ課をつくれと言っているでしょう。それをいち早くうちは独自でやっておりましてね。イトーキの製品しか扱わないセクションをつくったわけです。

伊藤 イトーキさんの方での大きな受注はどんなところがありますか。モデルになったオフィスプランニンングー

小杉町役場
堀江 一番最初は小杉町役場です。干場さんがこちらにおられる頃から通っていて、大阪に移ってからも出張して来られましたから、昭和49年から50年頃でしょうね。当時イトーキのOAセンターが発足して間もない頃で、オフィスプランニングの事例として非常に貴重な事例だったんですね。皆さんあっちこっちから見に来ましたよ。当時の金額で二千
八百万円位の売上げでした。それまでトータルで売るというのは、特に役所関係は難しいとされていたのですが、この小杉町役場に実績ができたおかげで、各地の役所にトータル販売の事例ができ、納入コースも大きく変わりました。その次が、新築農協会館。二億円位でした。イトーキさんの全面的なバックアップがあったおかげです。ただ、私共測量機の業界も時代のニーズに従って、事務機器に転換していったところが全体の8割ぐらいあるのですが、私のところはどうしても、開発関係を主体にしてきましたし、需要があった関係上、なかなか転換できませんでね。しかし、私共の計測機器というのは、トータル的な販売をするんですよ。機械を売って、据えつけをし、最後はデータ処理業務まで一括なんですね。従って、昔売った機械の精度が悪くなったりすると、今はもっと精しいデータが出るのが出てますよ。と言えば、新しいのに一式取り換えてくれる。そもそも、機械を売って活用させ、分析までしてしまうという方法をとったのはうちが全国で第一号です。
なぜそれがわかったかというと、建設省の河川局が、これは一つの参考になると調査方法をそえて全国に流したんです。今は時代が変わって、人間を使わず、コンピューターで分析してしまうようになりましたが、いわゆるシステムトータル販売を昔からやってはいるんですよ。

伊藤 でしたら、事務機はもちろんイトーキ製品もお手のものではないですか。私はね、何でも一本一本売っているんじゃしょうがないと思うんです。お宅の測量機だって、建設会社から言われるものを一台一台売ってたんじゃなくて、システムを組んで、機械を売り、測量をし、附属の消耗品を売り計算もする。誠に近代的なやり方をされていたわけで
すね。

堀江 私もね、イトーキさんが今年赤坂プリンスでやったプレゼンテーションを見て、すばらしい未来の夢を感じ、今後はトータル的に提案して売って行く時代だと思いました。

伊藤 お宅にはその下地があるんだし、ノウハウを活かせばやりやすいのではないですか。

堀江 そうですね。以前イトーキの渋谷のプランニングセンターには何回か足を運びました。要するに、カタログを見せて、お客に選んで下さいという時代じゃない。オフィスの図面を引いて、仕事をしやすい環境づくりを提案していく方法ですよね。こう人件費の高い時代になりますと、よほど効率のよい商売をしないとダメだと思うのです。
営業マンは便利屋にあらず私はね、営業マンは便利屋をやってはいけないと思うんです。
以前はお客に頼まれるものをどんどん仕入れて持って行ったんですが、進歩はしないんです。それで思い切って毎年
0.3%づつ商品を捨てました。それをしないと新しいものに追いついていけない。営業マンの稼働時間を計算しますといかに効率良く仕事をさせるかにつきると思います。一例を申し上げると、うちは営業マンにスチール家具の配達はさせません。あの大きくて重いのは一人じゃ持てませんしね。運送屋にまかせています。

伊藤 そうです。営業マンが労働提供型になってはいけない。配達はサービスであって営業ではないわけです。そこを割り切って他に頼むというものの考え方ができるのは、社長さん非常に進んでいますね。

堀江 私にそういう発想が出てくるのは、計測機械を扱ってきたからなんですね。計測機器というのは非常に精度を要求されるし高い。うちで供給した品物はどういう企画でどういう具合に反映されていくか見ますと、最早、便利さだけで買う時代ではないんですね。
やはり価値あるものでないと売れない。ですから、レーザーを使ったり、ボタン一つ押すと一秒で計算できる機械等、精度も良いが値段も高いというのがどんどん出てきますが、うちはそういうものを売るんです。一般的なものは売らない。二十万円のを売るか、二百万円のものを売るかとなった場合、二百万円の方が売れるし、同業者の先を行けるわけです。私は追いかけられるのは嫌いですし、他とは差をつけたいと思う方ですから。ただこれを保つには常に勉強が必要です。社員には研修会に出席させ、研修で学んだことをベースにそれ以上の勉強を自主的にさせています。結構、うち独特の技術があるんですよ。河の水位を測る方式で、通産省の指定の中にホリエ式というのがあります。うちの技術が考えたものですが、一つの方式として残っています。

伊藤 社長さんは大体エンジニアなんですね。

堀江 面白いですよ。うちの古い連中にはセールスエンジニアが多いんですよ。測量機器を使うのは技術屋ですからね。使う人が良いと言えば買う窓口に戻って、そのまま契約につながる。ですからうちの若い営業マンには使っている人が一番良くどこを改良したら能率が上がるとか使いやすいとか知っているんだから「教えて下さい」と言って、どんどん
吸収して来いと言っているんですよ。そうして実際にこういう型にしたらどうかとかメーカーも入れて、改良プランをつくったりもしました。また、現地に行って測量をし、水に関するデータをとり、図面を引く。うちの社員は長年のカンで引いちゃう。それで、こういう方法がありますと提言する。建設省から「お前のところは面白い考え方を持ってい
る」と言われ、それがまた有利な契約に結びついたりするわけです。

伊藤 ものの考え方や仕事のすすめ方などにそれだけの土台があるのですから、事務機やイトーキ製品の販売に応用されたらすばらしいと思うんですが。私は営業マンが簡単な図面が引けるのをセールスポイントにすると良いと思いますね。お客の前で話しながら、一応のレイアウトをまとめられるように。本式の図面は専門家にまかせればいいんですからね。

堀江 確かにそうですね。息子を中心に若い層を育成し、新しい営業システムを考えていきたいと思います。私と一緒にやってきた古い社員はやはり急激な切り換えができないところがありますね。しかしこういう先輩の経験は貴重ですから、若い社員は先輩社員にくっつけて出しています。現場に一緒に行って実地訓練です。

黄綬褒章受賞

伊藤 いわゆるOJTですね。ところで、昭和60年秋に黄綬褒章を受けられていらっしゃいますが。

堀江 ええ、私はいろいろな団体を持っていましたものですから、団体発展功績に対してと、中心になったのは計量器販売功績でいただきました。同じ年に通産大臣から計量功労賞の時は天皇陛下に案内ともども拝謁の栄に浴しました。たいへん、感激いたしました。

伊藤 しかし、社長さんは実にたくさんの賞を受賞されていますね。ますますのご活躍を期待します。今日はありがとうございました。

社長室に数々の賞状が並び、一際立派に黄綬章賞が輝いていた。また、珍しい定規の模型もみつけた。昭和58年に皇太子ご夫妻が育樹祭にお出になられた時に特別製作し、献上された「輪尺」というものだそうだ。檜の白木造りで、皇太子ご夫妻に献上された分と記念館に永久保存された分と堀江社長の分の三つしかない貴重なものだとか。
とにかく、度
量衡に関しては大御所。度量衡で培ってきた実績と実力をイトーキ製品の販売に活かされ、盛々の発展を期待したい。